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2015年10月 7日 (水)

リスク管理に攻めも守りもない

よく巷にはコンプライアンスを重視することを「守りの経営」と評し、リスクを大胆にとって成長を図ることを「攻めの経営」と評する論者がいる。

法令遵守ばかりで本当のコンプライアンスの意味がわからなかった経営のもとで窒息しそうだった人々からみれば、「守ってばかりじゃ企業は成長しない。リスクを取らない企業に成長はない。」という意味で「守りの経営」と呼んだのであろう。そう考える心情は理解できる。

しかし、法令遵守は企業倫理として当たり前であり、今時、意図的に違法行為をやっても企業は儲けることを考えるべきであると思っているならば、すでに経営者失格である。まさかそういうことを考えている経営者が大多数とは思えない。

現実に、国際的な独禁法違反事件や汚職防止法違反事件で、刑事責任を追及された日本人が経営者・上級幹部も含めて30名以上米国連邦刑務所で服役している時代だ。巨額の制裁金に集団訴訟も重なり、違法行為の代償は大きすぎる。だから、どんな経営者でも違法行為の代償のおそろしさは理解できているはずだし、怖くてリスクは取れない。

そもそも、法令遵守こそコンプライアンスの本質というような「コンプライアンス経営」は、とっくの昔に否定されている。しかし、コンプライアンス疲れしている経営者には、「コンプライアンス経営」と「攻めの経営」は二律背反に映るのだろう。驚くべきことに、経営者を経験した社外取締役に就任している方の中にもそのようなことを口走る人をさまざまな機会に見かけるから、彼らが経営者であった頃の「コンプライアンス遵守」に疲弊したことがあるのであろう。

しかし、コンプライアンスの手法はつまるところリスク管理である。企業活動のさまざまなリスクを認識し、それに適切に対応していくことを、コンプラ的観点からは、リスクを認識する、或いは適切に対応することが社会常識や企業倫理からみて合理的なものであることが企業のブランド価値を守ることにつながる、といっているわけである。

企業にもさまざまなステージがある。そのおかれた状況により、取れるリスクも取れないリスクもちがってくる。だから、実は「攻めの経営」がすべての企業にできるわけでもないのだ。しかし、リスク管理の根本は企業がどのような状況で、どのような発展段階にあるかによっても左右されない。リスク管理は、企業が守ろうが攻めようが行わなければならないものなのだ。

例えば、会社にとって重要な海外投資プロジェクトがあるとする。その検討過程では、投資対象事業の現実性、将来性、収益性、当該投資を行う際の法務リスク、コンプライアンスリスク、税務リスク、必要とされる人材や確保の問題、カントリーリスク等、さまざまな観点から検討がなされ、ひとつひとつの問題点についての検討がプロジェクトチーム内でなされるであろう。その検討をへて、経営会議や取締役会に議案が上程され、取締役からさまざまな質問がなされる。あらたなリスクの指摘もある。その結果として、ある問題点について、リスクが残っているようであっても、当該リスクをとっても代替手段がある、あるいは投資を中止する、といった合意のもとでゴーサインがでることもある。

このように、リスクの認識と評価、それに対する対応についての考え方は、企業がどんな状況でも同じだ。つまり、主要なリスクはすべて洗い出し認識しなければならない。プロジェクト進行にとって大きなリスクか小さなリスクかを判断し、リスクをとっても進行させるべきかどうかは代替手段が可能か、あるいはそのリスクが発生したらプロジェクトは中止とするエクジットルールを定めておく等の方法で決定する。会社のおかれている状況によって、どの程度のリスクが取れるのかはちがうだろうが、判断のプロセスはぶれない。

だから、会社の経営状況が好調で多少のリスクをとっても投資を実行できる場合であっても、会社の業績が低迷している中、あまり無理はできないという場合であっても、リスク管理自体はまったくかわりない。「攻め」であろうが「守り」であろうが同じなのである。違うとすれば、大きくリスクを取るべきと考える経営者の信念、世界観、将来の見通し、会社の状況はそのようなリスクが顕在化しても耐えられるのか、といった諸点の見方の違いである。それらは、リスク管理の基準や手法とは別のものである。

この海外投資案件の例で、プロジェクトが当該国の政府高官に対してアンダーテーブルの現金を渡さないと進まない可能性が大という報告があったとしよう。この場合に、やむを得ない場合は渡すしかないと考える余地はない。日本の不正競争防止法で海外公務員贈賄罪にふれ、あるいは当該国や米国の海外公務員汚職防止法に該当するような行為を行うことを許せば、それを承認した取締役も同罪である(少なくとも米国では共同謀議が成立してしまう)。これをやってもしょうがないというのは「攻めの経営」ではなく、「経営者の暴走」なのである。したがって、経営者としては、最大限努力して政府高官を説得し、それでもダメならば賄賂はぜったいに渡すこともなく、また話を聞くこともなく、プロジェクトは中止とすると判断するのが当然であろう。

これに対して、この海外投資案件で対象業種について外資規制があり、業務の形態によってはそれにふれるとされる可能性があるとしよう。違法行為の疑いがあるとされる投資に出資するからダメ、というのは簡単である。しかし、詳細な検討をして、違法とされるリスクはどの程度なのか、限界的事例なのかどうか、違法とされた場合の法律違反に対する刑事処罰はなく行政処分だけにとどまるのか、類似事態が担当官のさじ加減ひとつで起こり得るのか、万一違法とされても他の代替手段をとれば違法行為が治癒でき、ダメージはコントロールできるのかといった点について十分かつ説得性のある裏付け(弁護士の意見も含む)があった場合には、違法となる可能性のあるプロジェクトをそのリスクを取って進めることは経営判断の領域の問題である。

結果的にダメージコントロールがうまくいかなくなる可能性はあるが、そのリスクをとっても投資を承認した経営判断が社会的に指弾されるものなのかは大いに疑問だ。これを指して「コンプライアンス軽視だ」という批判は、事を単純化したい一部マスコミにはあるかもしれない。しかし、コンプライアンスを重視したからこそ、リスク管理のステップを踏んで、十分検討したものであるから、その指弾を受けるリスク(レピュテーション・リスク)は低いであろう(このような検討もリスク管理の内容の一つだ)。

このように、リスク管理は会社がいい時も悪い時も必要であり、コンプライアンス経営と結びついているし、「攻めの経営」とも結びついているのだ。そこには攻めも守りもないのである。

仮に投資が失敗した時はどうなるか。これは誰が「責任」をとるかという問題である。この問題はとても大事な問題なので、また、来週取り上げることにする。

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