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2015年10月に作成された記事

2015年10月27日 (火)

5分5分のリスクの取り方は状況次第

私の知人にW氏という人がいる。英国系法律事務所に勤務した後にゲーム開発会社の社内弁護士に転じ、今は別の会社で社内弁護士をしている優秀な若者である。その彼が、転職通知とともに最近ある雑誌のコラムに「イノベーションを支える弁護士」という題で寄稿し、その記事を送ってくれた。彼はその記事の中で、イノベーションを支える法律家の在り方について考察をしているのだが、キーメッセージとして、Googleの会長エリック・シュミット氏の著作「How the Google Works」から、以下の言葉を引用している。

「法律問題に対して過去を振り返りながらリスク回避を最優先に取り組むという姿勢は、インターネットの世紀には通用しない。企業の進化が法律の変化を遥かに上回るスピードで進むからだ。スマート・クリエイティブ主導でイノベーションを起こそうとする企業の場合、正解率が50%なら儲けものだが、リスクの許容度が数%である弁護士にとってそれは大問題だ。」

この言葉にW氏は深く共鳴しているようだ。彼は自分のことを顧みて、リスク回避を最優先に取り組むという姿勢そのものであり、ゲーム開発会社で日本発の新規事業につき、文献の裏付けがないため事業部に対して許容できないリスクとしてNGを出す寸前だったが、行政も含む社内外関係者とさらに議論してゴーサインが出せることになったという体験を語り、自分は「リスク回避を最優先とする弁護士」であり「イノベーションを支える法律家ではなかった」と自省するのである。

私が要約しているので、わかりにくいと思うが、皆さん、シュミット氏の言葉とW氏の言葉は同じことをいっていると受け止められるだろうか。私には、別なことを言っているとしか感じられないのである。それはこういう理由からだ。

米国では、規制のない、あるいははっきりしない分野のビジネスはできて当然だという感覚がある。営業の自由は合衆国憲法が保護するところであるから、たとえ規制と規制のはざまにあり適用法規がはっきりしなくても、あるいは合法かどうかがはっきりしなくても、それは営業の自由を妨げる理由にはならないのだから、実行しても何ら非難されるべきところはないというわけである。さすが、自由の国アメリカであり、実行してしまうのが米国人の感覚として普通なのだ。シュミット氏のいわんとするところは、この発想にのっており、アグレッシブである。新規のビジネスが、もしかして他人の財産権を侵害していると判断される可能性や違法となってしまう可能性があっても、50%の確率ならばやってしまうというスタンスと読める。これこそ、彼がリスク許容度が数%と弁護士を批判している本音である。つまり、合法であるか違法であるか、5分5分であってもインターネット時代ではやってしまうべきといっているわけである。

シュミット氏の指摘する通り、新規ビジネスでは規制の後追い現象が起きるのが常である。インターネットの世界はむしろ新しいビジネス分野であり、古くは自動車がそうであったし、1990年代~2000年代前半の金融の世界もそうであったから、インターネットの世界が特別であるわけではない。ただし、そのスピードが全てのビジネス分野でいままでのビジネスに比較してかなり早いという点は違いとしてあるだろう。

しかし、シュミット氏は、違法の効果が民事の損害賠償だけですむのか、行政罰だけなのか、それらの金額とコストはどれくらいなのか、刑事責任も追及される可能性があるのかという点には一切ふれていない。しかし、懲役刑を伴うような刑事責任、特に「自分に」刑事責任がかかる可能性が50%あるような場合、米国のコンスピラシーの理論の下、共謀罪が比較的簡単に認められる法制のもとで刑務所にいかなれけばならないようなリスクを好んでとるとは到底思えない(シュミット氏がそういう立場ならばこれはlunaticというべきであろう)。あるいは、民事賠償金や行政の制裁金が巨額となるようなものである可能性が5割あるならば、あえて実行する経営者もあまりいないであろう。

このように、当該事案におけるリスクが、どの程度の金額の損害賠償でおさまるのか、行政的制裁のレベルはどの程度なのか、また、刑事責任の可能性まであるのかという点で、5分5分の違法可能性のリスクを経営者が拾うかどうかはちがうはずで、シュミット氏の言葉をどのような場面でも額面どおりに当てはめることは、シュミット氏のいわんとしていることを単純化しすぎである。シュミット氏の言葉は、インターネットのイノベーションの中で、あらたなビジネスについて規制当局とのバトル、あるいは他の権利者とのバトルが発生しても、それが民事的争いであるかぎり、リスクが5割あっても突き進むということであろう。もしGoogleのカルチャーがそうであるなら訴訟社会米国において多数の訴訟から逃れられないだろう。しかし、それでも可とするのがシュミット氏の考えであるならば、この会社の法務責任者となるのはかなりの勇気のいることである。

これに対して、W氏の場合は、文献に裏付けはないが、行政も含む関係者と議論して、合法であるというロジックを発見し、それがかなり耐えられる議論であるからサインオフしたという話と読める。つまり、それこそ「リスクを回避できる確率を高める」ところまでロジックを固めて、行政当局とも話して、当局もあえて違法とはいわないというところまでもっていっているという話であり、文献の裏付けはないが努力した結果、違法の確率がかなり減ったという話なのである。

かくして、W氏の話の事例とシュミット氏の言葉が想定する事例ではかなりの差があるので、私にはなぜW氏が自分のことを「リスク回避を最優先とする弁護士」であり「イノベーションを支える法律家ではなかった」と自省するのかがわからないのである。彼が反省すべきは、文献にないからといってあきらめようとした消極的態度を取ろうとしたという点であり、リスク回避をしようとしたことではない。

もし、シュミット氏の考えを日本の金融の世界で実行したらどうなるか。もし新商品を行政当局が検査において違法認定したとしたら、業務改善命令はさけられない。経営者まで違法の可能性が五分五分であると知っていながら商品を世に出したとされれば、まちがいないく経営責任を問われるであろう。さらに、それにOKを出した法務担当の弁護士については組織内で責任の所在・処罰を明確化するように求められるから、だいたいは辞任するほかないという状況になる。さらに、もし投資家に損害でも出すような商品を出したということで、経営者は善管注意義務違反の損害賠償訴訟を提起されるかもしれない。さらには、米国であったらSECが包括規定をつかって証券詐欺で刑事責任を追及するかもしれない。特にSECの調査は苛烈で非常にコストがかかる。本当に起訴されてしまえば、ビジネスマンとしての命運は尽きる。

ところで、一般に法的リスクが高いものでストップをかけようとすると、ビジネスマンは「弁護士はビジネスマインドがない」といって、リスクを取るべきことも考えろといいたがる。ビジネスマンはどうしてそれをとろうとしたがるのか。インターネットの世界ではスピードが必要だからということがいわれる。しかし私はこの答えは一面しか指していないと思う。どのビジネスでもスピードが肝心だからだ。もう一面の答えは、「莫大な利益」である。そう、新しいものを作り出した創業者のみが得られる創業者利益、これをビジネスマンは貪欲に求めている。つまり、「金貨」なのである。経営者やビジネスマンの使っている天秤には、右に金貨、左にリスクの重りが載っており、その左の天秤の重りの一部に法的リスクと書いてあるだけなのだ。ところが、法律家の天秤には右に「合法となる事情」、左に「違法となる事情」がのっているのだ。しばしばビジネスマンには見逃されているが、用いている重しがまったくちがうのである。

にもかかわらず、ビジネスマンはいう、「法律家もビジネスマンと同様に考えろ」と。しかし、経験をつんだ弁護士は知っているのだ。いざとなったらビジネスマンは、「うちの弁護士がOKといったから私はやったんです。責任は私ではなく、OKといった弁護士にあります!」ということを。つまり、ビジネスマンは弁護士を使ってリスクヘッジをするものなのである。実際、私は金融の世界でそういう態度をとってきたフロントの人間をたくさん見てきた。そういう声に押されて、結果として検査で違法とか不適切とされ、責任をとって会社を去らなければならなくなった数多くのコンプライアンス・プロフェッショナルもさんざん見てきた。

誤解しないでほしいが、私はビジネスマンを非難しているわけではない。金貨を片方の天秤にのっけている限り、それは、ある意味、自然な対応なのだ。彼らの使命は収益を上げることである。しかし、彼らは法的リスクの責任はとりたがらないし、ヘッジする。リスクヘッジも大切なビジネスのスキルだから、社内の他の部門が責任をとることという組織の建前を使って、自分を守ろうとする。ビジネスマンの本能であるから、できるビジネスマンほどやりがちである。それに会社には法務をはじめとするリスク管理部門が設置され、それぞれが責任を持っているから、その意味ではビジネスマンのいっていることにまちがいはない。ここでの核心的問題は、ビジネスマンの使命と法務マンの使命がぶつかるような状況がでてきたときに、どちらを優先するのかという経営判断なのである。自分がその点について、どういう社内状況を許しているのか、経営者はよく考えてみることが必要である。そして、それぞれの部門がその職責を全うできるような環境をちゃんとつくっているかを、自問自答してほしいと心底思う。

経営者は各部門に期待する。営業部門には仕事をとってくることだ。製造部門には品質よい商品をタイムリーに生産し供給することだ。それと同じように、法務部門と社内弁護士に対しては、経営者が期待するのは、プロとして合法か違法かの確率はどれくらいなのかという評価とどうしたらリスクを減らせるかである。それは重要な仕事なのだ。だからこそ、外資系では、一会社員であるのに日本の一流企業の社内取締役の平均報酬以上の高い録をはみ、召し抱えられていたジェネラル・カウンセルがいたし、現にいるのだ。そういう機能を果たす者に、経営者の判断基準を押し付けたら社内弁護士は仕事はできない。これをまず経営者は理解しなければならない。

もちろん、ビジネスを推進するためにいるという目的は弁護士も当然わかっていなければならない。だから闇雲にNOといわず、文献がないからなどという他人依存の態度はすて、合理的な論理構築でなんとか突破できないかと知恵を絞り、当局を説得する努力を惜しむべきでない。しかし、がんばって検討を行った結果、刑事罰や巨額の民事損害金、行政罰とその結果生じる高いレピュテーションリスクが予見されるような違法の可能性が5分と5分と判断される時に、弁護士がいうべきことは、「リスクは高すぎるので賛成できない。」ということにつきる。

問題は、そういわれてもあまりに期待収益が大きいようなプロジェクトでリスクもかなりあるような案件、いわば社運をかけたような案件の場合に、最終判断は誰がするのかである。法務の責任は法務の最高責任者がとるのが当たり前だが、それでも5分の可能性にかけてやりたいとビジネスが望むときには、進むか退くかを決断し、責任をとるべきなのは法務の責任者ではない。経営者なのである。つまり、クライアントがプロからリスクが高すぎるよと言われても、それでもあえてやるんだといってリスクは「自分が」とるということである。医者の世界で非常に危険な手術をするかどうかは説明を十分受けた患者が決めるのだ。そして決断したあとに、なにがおこっても医者の責任を問うことはないという書類にサインして、手術を受ける。それに似ている事態だが、社内弁護士はそういう書類は要求できない。

ビジネスマンがアグレッシブ一方で、法務やコンプラを一方的に非難し、他方で実行後問題になったときに法務やコンプライアンスがOKといったからやりましたというような組織は、経営者が悪いのである。すべては、経営者の姿勢から発している。つまりは、その経営者の倫理観、勝負勘、度量が全て重大かつ重要なリスクテイクの判断の際に出る。

ちょっと冗長になってしまったが、結局は、リスクが5分5分といっても、問題の種類によってリスクを取るかどうかの判断は全然ちがうということである。5分5分の状況の時にとれるリスクもあれば取れないリスクもある。そこを捨象してしまい、シュミット氏の言葉をどのような場面でも適用すべきだと考えるのは、危険だ。シュミット氏の言葉の薀蓄は深い。だからこそ、よく噛んで咀嚼しないと消化不良をおこす。飛びつく前によく考えよう。

2015年10月15日 (木)

責任者、撤退ルール、責任の取り方を決めるのは経営の要

私は株式会社オートバックスセブンという上場企業の社外監査役を7年間務め、いま、8年目の最終の年を過ごしている。この間、多くの社内役員・社外役員とかなりの数の案件を経営会議や取締役会で議論してきた。それは非常に貴重な体験であり、経営に対するさまざまな見方、リスクに対するさまざまな視点があることを学ばせていただいた。この機会を与えてくれたことに、深い感謝の念をもっている。

特に私が啓発されているのは、社外取締役の島崎憲明さん(元住友商事代表取締役副社長)、同僚社外監査役の清原敏樹さん(元三井物産テクノプロダクツ代表取締役社長)、坂倉裕司さん(前GCAサヴィアン株式会社チーフ・デベロップメント・オフィサー、元日商岩井証券株式会社代表取締役社長)の総合商社(およびその子会社)の経営者出身の3名の社外役員である。

現代の総合商社は、投資会社である。その実態は物を動かすことを前提とする大小さまざまな投資活動をグローバルの規模で行っており、政治的、地政学的、法的リスクの高い国でも多数の投資経験をもっている。その投資活動に長年従事し、組織を効率的に動かし、投資を成功に結び付けるためのポイントの見極めを磨いてきた3人の意見はするどい。

彼らが指摘するさまざまなリスク管理の視点や発言は、弁護士として内部統制・リスク管理に長年取り組んできた者をなるほどと首尾させることが多々あるが、 特に、「プロジェクトがうまくいかなかったときのエクジット・ルールはどうするのか」、そして、「プロジェクトの責任者はいったい誰なのか」を決めるこ と、さらには、「プロジェクトが失敗に終わった時の責任はどうとるのか」および「失敗したプロジェクトは何が原因なのかを分析し全社にフィードバックする」というルールを定めるべきであるとの指摘は、経営責任者の経験ならではであると思う。順番に述べていきたい。

プロジェクトのエクジット・ルールを一般的に定めている事業会社は少ないであろう。しかし、案件ごとに、業績が想定どおりにいかなかった場合に、どのような条件をみたぜばエクジットするかというルールを策定することは、経営にとって重要である。その理由は、私が考えるところ、3つある。

第一は、プロジェクトに対するだらだらとした追加投資や損失の拡大を防止することである。投資を開始するにはそれなりの理由がある。またそのプロジェクトを企画し遂行する担当役員や担当部長の思い入れやメンツもある。予想していなかったリスクが発生することもあるであろう。しかし、投資継続、拡大はあくまで合理的な予測と計画のもとで行われなければならない。その検討が甘ければ取締役の善管注意義務に違反する可能性があるだけでなく、会社資産の減少につながっていく。長くほっておくと処理コストもあがっていく。ずるずると損失が拡大していくということをいくつもの上場企業が経験しているが、それは多くの場合に一度始めてしまったプロジェクトからの撤退のタイミングを見誤ったり、担当役員への遠慮があったりする場合が多いように見受けられる。それを防止するためには、投資開始当初からエクジット・ルールを定めていたほうがよい。

第二は、特にプロジェクトに相手方がいる場合には、エクジット・ルールを定めて、かつ、それが発動できるように契約書に盛り込んでおくことが必要であるという点である。例としてわかりやすいのは、製造業におけるジョイント・ベンチャーである。少し長くなるが、私の経験からこの点を解説する。

私が経験した北米における自動車部品関連の製造JV(圧倒的に北米日系メーカー向け部品の製造販売を主目的とするもの)はすでに20年から25年前の例ではあるが、JV契約にエクジット・ルールが明確化されていないものが多かった。債務超過が清算となると書いてはいるが、その前提としてJVのオペレーティング・コストを補うためのJVパートナーからの貸付ルールや追加出資ルール、債務超過がどの程度続けば清算決議をすべきなのかという点や、清算の場合の損失の分担、事業継続が必要な場合には相手方からの買い取りについての買取価格などについてのルールが、明確に定まっていないものが多かったのである。

JVの目的から日系部品メーカーは受注モデルの生産が続く限り、受注モデル向け部品の製造をやめるわけにはいかないという事情(その他、取引先との関係やローカルコンテント維持などさまざまな要素があった)がある場合が多く、相手方からどうしても持分を買い取り、生産を継続していかなければならない。そこで弱みにつけこまれ、相手方にごねられて、企業価値にまったく釣り合わない価格で買い取らざるを得ない事態がしばしば起こっていた。その結果は、追加投資額と処理コストを含めて、投資回収に20年もかかるような案件となってしまう。最悪の場合には、損失を拡大して子会社となったJVが清算に追い込まれる。それが原因で親会社本体までおかしくなり、身売りしなければならなくなった部品メーカーもあった。

このようなリスクは予想されるので、当時から清算のメカニズムや株式買取の際の処分価格の決定方法など、明確な取り決めをすべきであるとアドバイスしていたが、「これからJVをつくるときに離婚のことを考えるのはできない。」、「相手方を信頼しているのだから、そんなことは交渉できない。」と、極めて日本的な対応を依頼者からされたことを今でも鮮明に思い出す。ところが、米国ではまさに結婚するときに離婚を想定して火花をちらすような交渉を行うこともしばしばであったのだ。そのためのアイデアを米国の弁護士はもっていたが、ことごとくアドバイスは無視されたのである。

営業赤字が3年続けば清算するというルールがあったとしても、それが契約書におちていないと相手方に対して強制はできない。処分価格の決定方法もよくよく考えておかないと相手方がごねていつまでたってもうまくいかない。人質をとられているような状況だから思い切った動きができないのだ。こうしたことを防止するために、エクジット・ルールを定めて細部まで詰めて契約書に落としておかないといけない場合もあるのだ。

第三に、投資として成功なのか、失敗なのかを明確にする基準を設定することで、投資活動そのものに自律性をもたせるということである。つまり、撤退基準を明確にすれば、売上予測や一般管理費・営業利益予測は現実的か、甘くはないか、リスクの見落としはないかといった点を、企画する者が一層精査するようになり、投資活動に自律性が生まれるのだ。新規投資を企画する者は、いったんその計画を策定するとなかなか止まらなくなるという特性がある。事業に対する熱意があればあるほど、熱意が熱病になり、しっかりした見極めが十分できていないということが起こり得る。投資計画の現実性・合理性を担保するためには、エクジット・ルールを定めることをルール化する意味は大きい。

次に「プロジェクトが失敗に終わった時の責任はどうとるのか」というルールについてである。これを指摘されたときには、正直、「さすが生き馬の目を抜く環境でやってきた人のいうことは厳しい。」と思ったが、しかし、考えてみると、これはガバナンス上当たり前であり、かつ機能するルールなのだ。

失敗に終わったときに、すぐに責任を取らされて降格というルールもあるだろうし、ストライク3までは見逃してやるというルールもありうるだろう。重要なのは、このようなルールがあることで、さきほど述べた投資活動の自律性を高めることにつながるのだ。人間、誰しも投資が失敗に終わったときには、それなりの責任を問われるということが最初からわかっていれば、少なくともやるべき精査はやるようになる。もし、責任を誰もとらないということを放置しておけば、会社という組織は腐食していく。責任を取らない上司のもとで働いた人間は自分も責任をとらなくなる。ガバナンスが機能しなくなっていくのだ。

「失敗したプロジェクトは何が原因なのかを分析し全社にフィードバックする」ことの重要性もしかりだ。周囲は失敗に終わった投資活動から、自分が責任者となったときにはその失敗の轍を踏まぬためにどうすべきかという重要なポイントの理解に努めるようになる。社内に「失敗の教訓」の蓄積が起きることは、同時に「取るべきリスクは大胆にとってもいい」という自信につながるだろう。投資活動のPDCAサイクルをまわすことは投資活動の自律性を高め、成功率をあげていくことに寄与するだろう。

3人の元商社マンから啓発された点は大きいが、最後に私が付け加えたいことがある。それはコーポレートガバナンス・コード原則4-2「経営陣の報酬について、中長期的な会社の業績や潜在的リスクを反映させ、健全な企業家精神の発揮に資するようなインセンティブ付けを行うべきである。」、補充原則4-2①「経営陣の報酬は、持続的な成長に向けた健全なインセンティブの一つとして機能するよう、中長期的な業績と連動する報酬の割合や、現金報酬と自社株報酬との割合を適切に設定すべきである。」、および、原則4-3「適切に会社の業績等の評価を行い、その評価を経営陣幹部の人事に適切に反映すべきである。」の3点が責任ルールと同様に重要であるということである。

投資活動は中長期にわたることが多い。成功したときのインセンティブ付けは、失敗したときの責任の取り方と表裏一体である。責任ばかり問うのでは十分でない。成功のインセンティブこそ人の活力を生む。このことも経営者は忘れるべきではない。

【追記】

責任者を決めるということについて書いていなかった。誰がプロジェクトの最終的な責任をとるのかは、所管部署が複数にまたがるときには往々にしてあやふやになる。うまくいったときにはその功は我にありと主張し、うまくいかなかったときにはその責任については誰もが知らんぷりということが起こりかねない。これは、投資行動の自律性に対して決定的な障害となる。最終責任者は誰なのかを明確にしておくことは、エクジット・ルールを定め、責任の取り方を決めておくこととともに、投資行動の自律性を確立する上で極めて重要である。

あたりまえじゃないかという向きがあるかもしれないが、自社の投資について上司がちゃんと責任をとったことがあるかをよく思い出せば、考えを改める方もいるであろう。日本の組織の最大の弱点は「責任」をとらないということである。それは会社だけでなく、地方公共団体、国、スポーツ団体など、ありとあらゆるところに見られる。これを「ガバナンスの欠如」と喝破したのは、久保利英明先生であるが、まさにそのとおりである。また、最終的な責任をとるべき人間が社長であることは自明の理だが、社長が責任の取り方を知らないことも多々見られる(欧米でも引導を渡すのは社外取締役の役割だから自らとるというのは成功体験ある人間にとっては大変なことだ)。経営者たるもの、「責任」という言葉の理解が必要であろう。責任の取り方が抽象的であるわけがないのである。

2015年10月 7日 (水)

リスク管理に攻めも守りもない

よく巷にはコンプライアンスを重視することを「守りの経営」と評し、リスクを大胆にとって成長を図ることを「攻めの経営」と評する論者がいる。

法令遵守ばかりで本当のコンプライアンスの意味がわからなかった経営のもとで窒息しそうだった人々からみれば、「守ってばかりじゃ企業は成長しない。リスクを取らない企業に成長はない。」という意味で「守りの経営」と呼んだのであろう。そう考える心情は理解できる。

しかし、法令遵守は企業倫理として当たり前であり、今時、意図的に違法行為をやっても企業は儲けることを考えるべきであると思っているならば、すでに経営者失格である。まさかそういうことを考えている経営者が大多数とは思えない。

現実に、国際的な独禁法違反事件や汚職防止法違反事件で、刑事責任を追及された日本人が経営者・上級幹部も含めて30名以上米国連邦刑務所で服役している時代だ。巨額の制裁金に集団訴訟も重なり、違法行為の代償は大きすぎる。だから、どんな経営者でも違法行為の代償のおそろしさは理解できているはずだし、怖くてリスクは取れない。

そもそも、法令遵守こそコンプライアンスの本質というような「コンプライアンス経営」は、とっくの昔に否定されている。しかし、コンプライアンス疲れしている経営者には、「コンプライアンス経営」と「攻めの経営」は二律背反に映るのだろう。驚くべきことに、経営者を経験した社外取締役に就任している方の中にもそのようなことを口走る人をさまざまな機会に見かけるから、彼らが経営者であった頃の「コンプライアンス遵守」に疲弊したことがあるのであろう。

しかし、コンプライアンスの手法はつまるところリスク管理である。企業活動のさまざまなリスクを認識し、それに適切に対応していくことを、コンプラ的観点からは、リスクを認識する、或いは適切に対応することが社会常識や企業倫理からみて合理的なものであることが企業のブランド価値を守ることにつながる、といっているわけである。

企業にもさまざまなステージがある。そのおかれた状況により、取れるリスクも取れないリスクもちがってくる。だから、実は「攻めの経営」がすべての企業にできるわけでもないのだ。しかし、リスク管理の根本は企業がどのような状況で、どのような発展段階にあるかによっても左右されない。リスク管理は、企業が守ろうが攻めようが行わなければならないものなのだ。

例えば、会社にとって重要な海外投資プロジェクトがあるとする。その検討過程では、投資対象事業の現実性、将来性、収益性、当該投資を行う際の法務リスク、コンプライアンスリスク、税務リスク、必要とされる人材や確保の問題、カントリーリスク等、さまざまな観点から検討がなされ、ひとつひとつの問題点についての検討がプロジェクトチーム内でなされるであろう。その検討をへて、経営会議や取締役会に議案が上程され、取締役からさまざまな質問がなされる。あらたなリスクの指摘もある。その結果として、ある問題点について、リスクが残っているようであっても、当該リスクをとっても代替手段がある、あるいは投資を中止する、といった合意のもとでゴーサインがでることもある。

このように、リスクの認識と評価、それに対する対応についての考え方は、企業がどんな状況でも同じだ。つまり、主要なリスクはすべて洗い出し認識しなければならない。プロジェクト進行にとって大きなリスクか小さなリスクかを判断し、リスクをとっても進行させるべきかどうかは代替手段が可能か、あるいはそのリスクが発生したらプロジェクトは中止とするエクジットルールを定めておく等の方法で決定する。会社のおかれている状況によって、どの程度のリスクが取れるのかはちがうだろうが、判断のプロセスはぶれない。

だから、会社の経営状況が好調で多少のリスクをとっても投資を実行できる場合であっても、会社の業績が低迷している中、あまり無理はできないという場合であっても、リスク管理自体はまったくかわりない。「攻め」であろうが「守り」であろうが同じなのである。違うとすれば、大きくリスクを取るべきと考える経営者の信念、世界観、将来の見通し、会社の状況はそのようなリスクが顕在化しても耐えられるのか、といった諸点の見方の違いである。それらは、リスク管理の基準や手法とは別のものである。

この海外投資案件の例で、プロジェクトが当該国の政府高官に対してアンダーテーブルの現金を渡さないと進まない可能性が大という報告があったとしよう。この場合に、やむを得ない場合は渡すしかないと考える余地はない。日本の不正競争防止法で海外公務員贈賄罪にふれ、あるいは当該国や米国の海外公務員汚職防止法に該当するような行為を行うことを許せば、それを承認した取締役も同罪である(少なくとも米国では共同謀議が成立してしまう)。これをやってもしょうがないというのは「攻めの経営」ではなく、「経営者の暴走」なのである。したがって、経営者としては、最大限努力して政府高官を説得し、それでもダメならば賄賂はぜったいに渡すこともなく、また話を聞くこともなく、プロジェクトは中止とすると判断するのが当然であろう。

これに対して、この海外投資案件で対象業種について外資規制があり、業務の形態によってはそれにふれるとされる可能性があるとしよう。違法行為の疑いがあるとされる投資に出資するからダメ、というのは簡単である。しかし、詳細な検討をして、違法とされるリスクはどの程度なのか、限界的事例なのかどうか、違法とされた場合の法律違反に対する刑事処罰はなく行政処分だけにとどまるのか、類似事態が担当官のさじ加減ひとつで起こり得るのか、万一違法とされても他の代替手段をとれば違法行為が治癒でき、ダメージはコントロールできるのかといった点について十分かつ説得性のある裏付け(弁護士の意見も含む)があった場合には、違法となる可能性のあるプロジェクトをそのリスクを取って進めることは経営判断の領域の問題である。

結果的にダメージコントロールがうまくいかなくなる可能性はあるが、そのリスクをとっても投資を承認した経営判断が社会的に指弾されるものなのかは大いに疑問だ。これを指して「コンプライアンス軽視だ」という批判は、事を単純化したい一部マスコミにはあるかもしれない。しかし、コンプライアンスを重視したからこそ、リスク管理のステップを踏んで、十分検討したものであるから、その指弾を受けるリスク(レピュテーション・リスク)は低いであろう(このような検討もリスク管理の内容の一つだ)。

このように、リスク管理は会社がいい時も悪い時も必要であり、コンプライアンス経営と結びついているし、「攻めの経営」とも結びついているのだ。そこには攻めも守りもないのである。

仮に投資が失敗した時はどうなるか。これは誰が「責任」をとるかという問題である。この問題はとても大事な問題なので、また、来週取り上げることにする。

2015年10月 1日 (木)

内部監査の軽視は経営の命取りー何もみえないで経営はできない

大手介護施設を運営している会社のいくつかの施設で、虐待や暴力が明らかになり、マスコミが大きく取り上げている。この会社の川崎の施設では、怪死が相次ぎ、警察の捜査も開始されているということだ。この手の会社が社会的非難の対象となるのは当然のことだ。虐待等に加担した職員の民事・刑事の責任だけでなく、その監督者としての民事責任が問われるべきであると、法律家だけでなく一般人も考えるだろう。

私が雑誌に掲載された経営者のインタビューを読んで直ちに考えたことは、「この会社は内部監査をまったく行っていなかったのだろうか」ということだ。それにフォーカスすれば、介護ビジネスを運営する事業主体における内部監査の必要性や重要性を直ちに理解できるはずである。

介護ビジネスは、社会福祉法の規制の下に行われるものであり、都道府県知事の監督を受ける。また介護保険のもとで、報酬は公的な資金から支払われるものである。介護保険施設は所有する都道府県から指定管理者として事業主体が指定を受けることも多々ある。介護ビジネスは法律によって規制された世界なのである。

また、ホームにおける職員の介護行動には一定のルールがある。朝、何時におむつを変え、朝食をどのタイミングで出し、身動きできない施設入居者を何回どのタイミングで寝返りを打たせ、カロリーはどれくらい調節した食事を与え、あるいは胃瘻をしている施設入居者にあたえるのか、といった行動準則である。私の亡き母親も特別養護老人ホームに長くお世話になった。だからそのルールが適切に実施されることで命を永らえていただいてきたことも体感している。

したがって、介護ビジネスではルール順守により介護の質を一定に保つことがビジネスを運営する上で必要不可欠であり、介護施設における虐待、不適切な介護、施設入居者からの預り金の不適切な管理、マニュアルの不遵守に起因する事故等の防止といったことが、ビジネスを守り発展させる前提条件なのだ。

それを一律現場任せにするという発想は経営者として失格だろう。介護ビジネスにおける職員の定着率の悪さは介護ビジネスを知らない者であっても周知の話だ。精神的にも肉体的にもきつい仕事なのに、低賃金のままで、よいスタッフを維持するのは大変なことだ。職員の質を保つためのトレーニング体制も、一部大手を除き、整備している会社や社会福祉法人の方が少ないであろう。実際、特別養護老人ホームを訪れれば、介護を行ったことのない者でも痴ほう症にり患した老人の世話というものがいかに大変なのかはすぐ理解できる。だから介護に向かないスタッフが入り込んでくることも予想できるし、フラストレーションから施設入居者を乱暴にあつかう者がありうることも想定の範囲内である。

きつい、汚い(介護の現場は大変なのだ)、低賃金という職場環境で仕事を続けている介護職員にはただただ頭が下がるばかりだが、そのような介護職員ばかりではない。介護職員の人格のみに依拠した運営は、リスクの放置そのものであり、経営者の怠慢と指弾されて抗弁できるのであろうか。法的に言えば、善管注意義務違反で経営者個人の責任が発生する可能性と隣り合わせの世界なのである。そして残念ながら、小泉政権以来、政府が推し進めている政策では介護報酬はあがらないのだ。だから、施設職員の待遇改善に踏み切れない環境の中、経営者はどうやったら安全にビジネスを運営できるかに当面神経を使わざるを得ない。

その一方策としては、内部監査が有効であろう。内部監査専門の人間が現場に赴き、金銭管理、業務マニュアル遵守状況、その他異常事態が発生していないかをチェックし、現場にフィードバックしていくのである。そのことは結局、一生懸命働いてくれている介護職員を守ることにつながるのだ。人間の弱さがでたときに不祥事は起こる。そして、それが発生したときはビジネスそのものが立ち行かなくなるかもしれない。内部監査は、施設入居者を守り、介護職員を守り、そして経営そのものを守るものなのだ。

しかし、これは何も介護ビジネスに限った話ではない。いまさらながらだが、内部監査は経営に必要な機能なのだ。そのことについてはたくさんの人が語っているのだが、経営者はいったいどれくらい理解しているのか。特に、監査等委員会設置会社に移行した180社を超える上場企業で内部監査部を充実させる経営者がどれくらいいるのか。このテーマについては、次の機会に述べてみたい。

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